 
 唐沢氏は、10-14世紀における世界の中心であった二つの「ローマ」、すなわちコンスタンティノープルとローマに対しブルガリアやセルビアが、どのような視点で関わりをもっていたのか、先行研究と史料を詳細に検討しながら考察された。周辺諸国にとっては第二のローマであるコンスタンティノープルは内政が不安定な時期であっても強力な政治的規制力を保ち続けていた。10世紀ブルガリアのシメオン帝はコンスタンティノープル遠征を行い、ビザンツ風に「ローマ人の皇帝」と称している。これに対し、1349年にヴェネツィアに軍事同盟を打診しコンスタンティノープル遠征を試みたセルビアのドゥシャン帝は、「ロマニアの皇帝」という称号を用いた。同帝はセルビア総司教から「セルビア人とギリシア人の皇帝」として加冠され(1346年)ローマ教皇からは対オスマン十字軍司令官に任命されている(1355年)。ドゥシャンの意識においてはローマ帝国皇帝への普遍的志向と、セルビアを中心とする領域王国の君主という伝統的理念が揺れ動きながら同居していたと考えられるだろう。
唐沢氏は、10-14世紀における世界の中心であった二つの「ローマ」、すなわちコンスタンティノープルとローマに対しブルガリアやセルビアが、どのような視点で関わりをもっていたのか、先行研究と史料を詳細に検討しながら考察された。周辺諸国にとっては第二のローマであるコンスタンティノープルは内政が不安定な時期であっても強力な政治的規制力を保ち続けていた。10世紀ブルガリアのシメオン帝はコンスタンティノープル遠征を行い、ビザンツ風に「ローマ人の皇帝」と称している。これに対し、1349年にヴェネツィアに軍事同盟を打診しコンスタンティノープル遠征を試みたセルビアのドゥシャン帝は、「ロマニアの皇帝」という称号を用いた。同帝はセルビア総司教から「セルビア人とギリシア人の皇帝」として加冠され(1346年)ローマ教皇からは対オスマン十字軍司令官に任命されている(1355年)。ドゥシャンの意識においてはローマ帝国皇帝への普遍的志向と、セルビアを中心とする領域王国の君主という伝統的理念が揺れ動きながら同居していたと考えられるだろう。
 
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