 プログラムは以下の通りです。
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 大月氏は、ザクセン朝のオットー1世の名代としてビザンツ帝国に赴いた、クレモナの司教リウトプランドが残した『コンスタンティノープル使節記』(968年)において、「ローマ」という言葉がどのように記述されているかを詳細な史料とともに分析された。イタリア半島における領土問題をかかえていた960年代の地中海世界の情勢のもと、ローマは『使節記』の随所に実際の都市名として現れている。使節の目的はオットー2世と皇女テオファノとの婚姻であり、交渉が難航するなかで、「ローマ人」というに名称にまつわるリウトプランドの赤裸々な感情も吐露された。政治的、倫理的に混乱した同時代のローマを解放したオットーを「ローマ人の皇帝」と認識していたリウトプラントであるが、同時期にコンスタンティノープルに来た教皇ヨハネスの使節が、オットーを「ローマ人の皇帝」と呼び、ニケフォロスを「ギリシア人の皇帝」と呼んでビザンツ側を激昂させた件に及んでは、ニケフォロスに対して「ローマ人の皇帝」と呼称し直している。リウトプランドの弁証は常にコンスタンティヌス帝の遷都時に遡り、その記述の各所からはローマ帝国と皇帝、都市ローマへの理念を読み取ることができる。
大月氏は、ザクセン朝のオットー1世の名代としてビザンツ帝国に赴いた、クレモナの司教リウトプランドが残した『コンスタンティノープル使節記』(968年)において、「ローマ」という言葉がどのように記述されているかを詳細な史料とともに分析された。イタリア半島における領土問題をかかえていた960年代の地中海世界の情勢のもと、ローマは『使節記』の随所に実際の都市名として現れている。使節の目的はオットー2世と皇女テオファノとの婚姻であり、交渉が難航するなかで、「ローマ人」というに名称にまつわるリウトプランドの赤裸々な感情も吐露された。政治的、倫理的に混乱した同時代のローマを解放したオットーを「ローマ人の皇帝」と認識していたリウトプラントであるが、同時期にコンスタンティノープルに来た教皇ヨハネスの使節が、オットーを「ローマ人の皇帝」と呼び、ニケフォロスを「ギリシア人の皇帝」と呼んでビザンツ側を激昂させた件に及んでは、ニケフォロスに対して「ローマ人の皇帝」と呼称し直している。リウトプランドの弁証は常にコンスタンティヌス帝の遷都時に遡り、その記述の各所からはローマ帝国と皇帝、都市ローマへの理念を読み取ることができる。 加藤氏は、レオナルド・ブルーニ(1369-1444)の著作において14-15世紀に再発見されたキケロがどのように受容されたか、哲学史的、社会的な背景を交えながら紹介された。1345年キケロの書簡集を発見したペトラルカは、弁論の音楽的なレトリックに惹かれながらも、哲学者の身で政治的な活動を行ったキケロに失望している。しかし15世紀前半、ヒューマニストが政治に携わるようになり、独裁制と共和制の抗争を想起させるフィレンツェとミラノの抗争が起こり、キケロの『弁論家論』の完全な草稿が1421年にイタリアのロディで発見されると、キケロの観想的生と実践的生の二つを統合させる生き様が再評価された。ブルーニは「閑暇を享受し学問に従事した哲学者以上に物を書き、他方、彼が学問と著作にもっとも従事していたときに、彼は、文学的活動に関わりを持たない人よりも多くのことを成し遂げた」とキケロを評している。キケロ自身も知識と雄弁とが統合されることを理想とし、ブルーニもまたソクラテス以来分断されていた「舌と心」を新しいヒューマニズムの教養において再統合することを提唱した。ブルーニが『ダンテ伝』においてダンテを「市民的な会話をなおざりにしなかった」と評していたことからも、ブルーニが「人間性」「教養」「社交性」の三点を含むキケロのhumanitas概念の継承者でもあったことも伺えるのである。
加藤氏は、レオナルド・ブルーニ(1369-1444)の著作において14-15世紀に再発見されたキケロがどのように受容されたか、哲学史的、社会的な背景を交えながら紹介された。1345年キケロの書簡集を発見したペトラルカは、弁論の音楽的なレトリックに惹かれながらも、哲学者の身で政治的な活動を行ったキケロに失望している。しかし15世紀前半、ヒューマニストが政治に携わるようになり、独裁制と共和制の抗争を想起させるフィレンツェとミラノの抗争が起こり、キケロの『弁論家論』の完全な草稿が1421年にイタリアのロディで発見されると、キケロの観想的生と実践的生の二つを統合させる生き様が再評価された。ブルーニは「閑暇を享受し学問に従事した哲学者以上に物を書き、他方、彼が学問と著作にもっとも従事していたときに、彼は、文学的活動に関わりを持たない人よりも多くのことを成し遂げた」とキケロを評している。キケロ自身も知識と雄弁とが統合されることを理想とし、ブルーニもまたソクラテス以来分断されていた「舌と心」を新しいヒューマニズムの教養において再統合することを提唱した。ブルーニが『ダンテ伝』においてダンテを「市民的な会話をなおざりにしなかった」と評していたことからも、ブルーニが「人間性」「教養」「社交性」の三点を含むキケロのhumanitas概念の継承者でもあったことも伺えるのである。
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